お蔵探訪記

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竹山 茂機 様
奄美大島酒造株式会社 杜氏 竹山 茂機 様にお話を伺いました。
内定辞退から杜氏の道へ

竹山杜氏は生れも育ちも働き場所も龍郷町とのことですが、焼酎造りに携わるようになったきっかけとは?
「当社は創業当時、名瀬市内に工場があったのですが、昭和57年に龍郷町に工場が移転しました。それから30年、私もここ龍郷町で焼酎造りに携わっています。
私は関西の専門学校を卒業後、実は地元奄美の機械関係の会社に入社が決まっていました。入社まで数カ月空くので、その期間だけアルバイトとしてこの蔵に入りました。そう、当時は焼酎造りに携わろうなんて少しも考えてなかったんです。
アルバイト時代、蔵は移転したばかり。それと同時に蔵も機械が導入されるようになり、私が機械の知識を持っているということでその当時の杜氏に機械の操作を任されるようになりました。 この頃の杜氏は60歳。ちょうど後任者を考えている様子で、私がアルバイトをやめようとしたところ、杜氏から『蔵に残って欲しい』と引き留められました。正直戸惑いましたが、私はもともと機械の操作が好きだったとこともあり、内定を頂いていた会社の入社を辞退し、この蔵への入社を決意しました。

竹山 茂機 様
ゼロからの挑戦
 

その後、どのような経緯で杜氏になられ、焼酎造りを習得されたのですか?
「入社2年目に杜氏が退職し、突如私が杜氏を務めることとなりました。しかし、当時の私には機械操作の経験はあっても、焼酎造りの知識と経験は全くありません。『絶対に無理だ』と頭から決めつけていました。しかし、「男だったら出来る」という社長の言葉で奮起し、その年の県の鑑評会に自分の造った焼酎を出品することを決めました。」

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失敗と挫折、そして“やりがい”

「蔵には造りの知識を持っている方はいませんでしたので、他の蔵元さんに口頭で造りを教わり、教わった通りに焼酎を造りました。すると結果は見事落選(笑)そう、造りを教えてくれた蔵元さんは本当に大事な部分については伝授しなかったのです。それこそが蔵の個性が光る部分。確かに、簡単に教えるはずないですよね。とても悔しい思いをしたのを覚えています。
 自分にはやはり杜氏は向いていないと落ち込んでいたところ、社長から呼び出され「男なら責任を持ち、もう一度チャレンジしてみなさい」と一喝されました。それがきっかけとなり再び奮起。3ヶ月後の熊本国税局鑑評会に挑戦する事にしました。 それからは本を買って独学で勉強。他の蔵に出向いて自分の目で造りを見て感じて学び、自らが動いて自分なりの焼酎造りの習得に努めました。その結果、念願の入賞を果たすことができ、焼酎造りの“やりがい”を初めて感じることができた、今となってはとても大切な経験です。 」

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ニーズに合った焼酎造り

今後どのような焼酎造りを目指していますか?
「蔵にある商品を出すだけではなく、お客様の要望に合わせた製品造りにも臨んでいます。最近ではお客様の好みの味わいが多様化しています。そんな方たちにも黒糖焼酎の新たな魅力を楽しんでもらえるよう、麹の種類や蒸留方法を変えてみたり、様々な造りに挑戦しています。新しい味わいを生み出し、挑戦する事は杜氏の経験を積む上でとてもよい刺激になっています。」

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