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奄美大島の焼酎は、戦前までは沖縄の泡盛を伝承していました。西平家も以前は沖縄の首里に本家があり、明治18年ごろから泡盛造りを始めました。初代・西平守俊(もりとし) 氏が、昭和2年奄美大島の東にある喜界島に渡り、分家を立てて泡盛を造り出したのが今の西平酒造の出発です。妻のトミ氏が初代杜氏となり、泡盛の酒造場として事業を開始しました。 |
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第二次世界大戦中の昭和20年、近くに軍の飛行場があったことから大空襲によって喜界島全体が惨憺たる被害を受け、酒造場も全壊してしまいました。そこで終戦の翌年、西平酒造は現在の奄美大島の名瀬に酒造場を再建。アメリカ軍政下の昭和27年には「巴麦酒株式会社」を設立し、本土との交易が途絶えた中でビールやサイダー、乳酸飲料など、島民の求める嗜好品の製造なども手掛けました。奄美群島の日本復帰と共に数年で姿を消した「トモエビール」は幻の地ビールとして語られています。 |
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黒糖焼酎が登場したいきさつには奄美の複雑な背景が絡んでいます。戦後の奄美では深刻な食糧不足により主食確保が困難となり、ヒエ、アワなどを島の人々は食べていました。酒造用の原料も制約を受け、米だけを原料にする泡盛を造ることが困難になってきました。そこで、ヒエやアワ、蘇鉄の実まで使って焼酎を造ることが試みられました。しかし、造りも難しく、味もいまいち。そこで黒糖が原料のピンチヒッターとなったのです。黒糖がにわかにクローズアップされたのは、実はそれ以前から一部の島民の間で、黒糖を原料に密かに焼酎が造られていたからという説があります。 |
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![]() | ●お蔵見学できます(要予約) | |
【住所】〒894-0012 |
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●西平酒造までの道のり | ||
奄美空港から車で約40分。国道58号線を名瀬方面へ。 |
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●お蔵訪問する前に | ||
お蔵訪問のための基礎知識を学びましょう。 |