泡盛の歴史 ~戦火を乗り越えた泡盛~

LINEで送る

■黒麹菌が支えてきた名酒、泡盛
沖縄と言えば泡盛です。南国の日差しの中、喉に響く力強さ。
ウチナンチュー(沖縄の人)の生活の一部であり、ナイチャー(本土の人)もその魅力に引き付けられ、今や『琉球』泡盛と原産地呼称を認められた世界の名酒です。
しかし、その歴史は波乱に満ち、過酷な時代を乗り越えてきたのです。

■首里三箇で培われた技術
沖縄の泡盛の歴史は「首里三箇」をなくしては語れません。
首里三箇とは首里城周辺の鳥堀、赤田、崎山の3つの地域で、琉球王朝時代(1492年〜1879年)の中頃から、泡盛を造ることが許された唯一の場所でした。
王府から泡盛造りの命を受けた約40家の「焼酎職」は、醸造の失敗や横流しが発覚すると醸造機具の没収や島流し、焼酎職以外の人の泡盛密造は死罪になる場合もあり、管理はとても厳しいものでした。
しかし、そのような中にあっても技は競われ、泡盛の製造技術が格段に上がっていきました。
江戸幕府への献上品には必ず泡盛が含まれており、薬用酒としても重宝され、泡盛は人々のあこがれの貴重な酒でした。
今日、首里三箇には3つの蔵元が残っており、協同組合を含め沖縄全島で計48の蔵元がより高品質な泡盛を造るべく、しのぎを削っています。

■蘇った黒麹菌
泡盛造りには欠かせない黒麹菌。黒麹菌はクエン酸をつくり、雑菌の繁殖を抑えるため、南国沖縄では無くてはならない沖縄固有の麹です。その黒麹菌も一時、消滅の危機にさらされた事がありました。
第二次世界大戦で首里三箇も激しい攻撃を受け、当時50以上あった酒造場が全て壊滅しました。戦後かろうじて生き延びた酒造関係者に、軍政府から「泡盛を造れ」という命令がきました。
原料は米軍の廃棄処分した米や砂糖やチョコレートです。酵母はイースト菌で代用し、蒸留器は焼け跡から掘り起こし、泡盛を造ろうとしました。
「黒麹菌がない!」蔵元の人々は黒麹菌が無いことに初めて気が付きました。黒麹菌が無ければ泡盛は造れません。
灰と化した首里三箇はもちろん、全島が廃墟になった沖縄に、黒麹菌が生き延びているとは思えませんでした。
しかし蔵元は偶然灰の中からニブロク(一種のゴザ)を見つけ出しました。沖縄では麹は、ニブロクの上で造られていました。藁をもつかむ気持ちで、ニブロクの繊維を蒸米にまぶしました。すると24時間後、その蒸米に麹菌が生育し、見事に黒色に変化していたのです。

この灰の中から不死鳥のごとく蘇った黒麹菌の存在が、今日の泡盛の復活と隆盛を築いたと言っても過言ではありません。

※出典元:本格焼酎&泡盛プレス 第88号
(日本酒造組合中央会発行)

chishiki31